「やらされ探究」とは何か?

「探究」という言葉が今や学校現場で飛び交わない日はないほど、日本の教育界に定着してきました。2022年度から高校では「総合的な探究の時間」が本格実施され、中学校でも「総合的な学習の時間」のリニューアルが叫ばれる中、多くの教師が「探究型授業」を取り入れようとしています。

ところが現場では、あることが静かに、しかし深刻な問題として広がっています。それが「やらされ探究」です。

生徒たちが自分の問いを持てないまま、教師から渡されたテーマをこなすだけの探究活動。形式だけが整い、発表資料は見た目が立派でも、生徒の目には何の光もない。そういった授業の光景を、心ある教師であれば一度は目撃したことがあるはずです。

「やらされ探究」とは

「やらされ探究」とは、生徒が自分自身の問いや関心を起点とせず、外から与えられた課題・手順・期待に沿って形だけ探究活動を行っている状態を指します。

探究本来の精神は、「自分が知りたいことを問い、調べ、考え、他者と共有する」というサイクルにあります。しかし「やらされ探究」では、この「自分が知りたい」という部分がすっぽりと抜け落ちています。生徒にとっては、「先生に言われたからやる」「成績に関係するからやる」「発表という締め切りがあるからやる」という状況であり、探究の本質的な喜び——知的好奇心の充足や、問いに向き合う楽しさ——がそこにはありません。

一見すると、「やらされ探究」は表面上うまくいっているように見えることもあります。生徒は素直に動き、スライドもきれいに仕上がり、発表も滞りなく進む。しかし終わった後に残るものは何か。生徒に「今日の探究で一番面白かった発見は?」と尋ねると、「特にない」「よくわからない」という答えが返ってくる——これが「やらされ探究」の典型的な結末です。

なぜ「やらされ探究」は生まれるのか

「探究」の急速な制度化

「やらされ探究」が広がった背景として、まず挙げられるのが探究教育の急速な制度化です。文部科学省は学習指導要領の改訂を通じて、「主体的・対話的で深い学び」を掲げ、探究活動を必修化しました。しかしカリキュラムが変わっても、教師の研修、評価方法、教材のエコシステムが整わないまま現場に降りてきたという実情があります。

多くの学校では、「探究の時間」が始まったものの、具体的な進め方のマニュアルが不十分なまま、ベテランの教師でさえ手探りで授業を進めることになりました。その結果、「とにかく何かテーマを与えて、グループで調べて、最後に発表させる」という型だけが先行するパターンが生まれたのです。

評価への縛り

探究活動には本来、数値化しにくい側面があります。好奇心の深まり、問いの精度、失敗から学ぶ姿勢——これらは通知表の点数にはなじみません。しかし学校という制度は、どうしても「何かで評価しなければならない」という圧力を持っています。その結果、「発表資料のクオリティ」「発表のわかりやすさ」「調べた情報量」など、目に見える成果物で評価せざるを得なくなります。

生徒はこの構造を鋭く感じ取ります。「評価されるのはスライドの完成度だ」と察した生徒は、本当に気になることを調べることよりも、「良さそうに見えるまとめ方」を優先するようになります。探究の目的が、学びではなく「良い評価を得ること」にすり替わってしまうのです。

時間的制約

週に1〜2時間という限られた探究の時間の中で、教師は「授業を成立させること」に追われます。問いを熟成させる時間、迷う時間、失敗する時間——これらはすべて、タイムプレッシャーの前では「無駄」のように映ります。結果として教師は、生徒が迷う前にテーマを絞り込んであげ、調べる方向を示し、発表の型を与えてしまいます。善意の「サポート」が、気づかないうちに生徒の主体性を奪っているのです。

探究授業の現場で起きていること

「テーマ配給型」の探究

たとえば、こんな場面を想像してみてください。

ある高校の探究の時間に、担当教師が「今年のテーマは『環境問題』です。班ごとに担当を分けるので、その分野について調べてレポートにまとめてください」と言います。生徒は素直にうなずき、グループごとに「気候変動」「海洋プラスチック」「食品ロス」などのテーマを割り当てられます。

さて、その後どうなるでしょうか。多くの場合、最初にGoogleで検索した情報を貼り付けただけのスライドが出来上がります。「気候変動とは何か」「現状の問題点」「解決策」という三段構成は、まるでWikipediaの要約のようです。

このケースでは、「問い」が生徒から生まれていません。「環境問題が気になる」という出発点ではなく、「環境問題を調べなさい」という指示から始まっているのです。生徒は探究者ではなく、情報収集の作業者になっています。

「お作法探究」の罠

ある中学校で、探究のプロセスとして「問い→仮説→調査→考察→発表」という型が丁寧に指導されているとします。一見、理想的に見えます。しかし授業を観察してみると、生徒たちは「このステップを正しく埋めなければならない」という意識で動いています。

さて、その後どうなるでしょうか。「仮説を立ててください」と言われた生徒が、「仮説ってどう書けばいいですか?」と尋ねる場面が生まれます。これは探究の形式を学んでいるのではなく、探究のお作法を「こなす」ことに主眼が置かれてしまっているサインです。探究の型は本来、思考を助けるための道具のはずが、それ自体が目的になってしまっています。

「発表ゴール型」の問題

探究の授業の多くは、「最後に発表する」ことをゴールとして設定しています。この設計自体が問題をはらんでいます。なぜなら「発表すること」をゴールにすると、「発表に必要な情報を集めること」が探究の目的になってしまうからです。

あるグループが「なぜ日本の若者は投票率が低いのか」というテーマで探究を進めていたとします。しかしその作業の実態は、投票率の統計を調べてグラフ化し、「若者の政治への無関心が原因」という結論を貼り付けることでした。なぜ無関心なのか、自分たちはどう感じるのか、解決するためにできることはあるのか——そういった問いへの深化は起こりませんでした。発表用の「答え」を用意することで、探究が終わってしまったのです。

「やらされ探究」が生徒に与える影響

探究嫌いの加速

最も深刻な影響は、「探究そのものへの嫌悪感」が育まれることです。本来、人間は本質的に好奇心を持っています。知らないことを知りたいという欲求は、子どもたちの誰もが持っているはずです。しかし「やらされ探究」を繰り返すことで、「探究の時間=しんどい作業の時間」という印象が刷り込まれていきます。

「探究って、結局決められたことをまとめるだけじゃないですか。何のためにやってるかよくわからないし、早く終わって欲しいと思う」。このような言葉が出てこないようにしなければいけません。

主体性の退化

主体性は、使わなければ衰えます。「どうせ先生が方向を決める」「答えに向かって作業すればいい」という体験を繰り返すことで、生徒は「自分で問いを立てる力」を使わなくなります。これは探究の時間だけの問題ではなく、他の授業や日常生活における自律的な姿勢にまで影響を及ぼします。

「主体的に学ぶ生徒を育てる」という探究教育の理念が、皮肉なことに「主体性を奪う場」になってしまう——これが「やらされ探究」の持つ最も根深い矛盾です。

「正解探し」の強化

探究は本来、「正解のない問いに向き合う力」を育てるものです。しかし「やらされ探究」の構造の中では、どこかに「先生が期待している答え」があると生徒は感じます。すると生徒は、先生の顔色をうかがいながら「正しそうな答え」を探す行動を取るようになります。これは、正解のない時代を生きる力を育てるという探究教育の目的と、真逆の方向性です。

本物の探究との違い

では、「やらされ探究」と「本物の探究」は何が違うのでしょうか。最もシンプルな判断基準は、「問いが誰のものか」という一点です。

本物の探究における問いは、生徒自身の中から湧き出てきます。「なんであの店だけいつも行列ができているんだろう」「スマホに依存してしまう自分は、なぜそうなるんだろう」「地元の商店街がどんどん廃れていくのはどうしてだろう」——こういった、生活の中で生まれたリアルな疑問が出発点になります。

また、本物の探究は「答えが出なくていい」という前提を持っています。むしろ、探究を進めるほど問いが深まり、「もっと知りたい」という気持ちが強くなっていくことこそが、探究が機能しているサインです。探究の授業が終わったとき、生徒がまだ考えていたら成功だと思ってよいでしょう。

「やらされ探究」から脱却する方法

問いを「与える」から「引き出す」へ

最初に取り組むべきことは、テーマや問いを教師から与えることをやめることです。代わりに、生徒が「自分の問い」に気づくための場をつくりましょう。

具体的な手法として効果的なのが「疑問日記」です。生徒に対して、1週間の間、日常生活の中で「なんで?」「不思議だな」「もっと知りたい」と感じた瞬間を記録させます。最初は「書くことがない」と言う生徒も、慣れてくるにつれて「通学路のカーブが多い理由が気になる」「なぜあのコンビニだけ人が少ないのか」「ゲームの課金システムはどうやって設計されているのか」といったリアルな疑問を見つけ始めます。

この「疑問日記」から始まった探究では、生徒の目の色が違います。自分で問いを立てた生徒は、その答えに向かって動く推進力を自分の内側に持っているからです。

「失敗」を授業設計に組み込む

本物の探究には失敗がつきものです。調べてみたら情報が少なかった、仮説が間違っていた、インタビューの相手が思ったことを話してくれなかった——こういった「うまくいかない体験」こそが、探究の核心にある学びを生みます。

しかし多くの教師は、授業が「うまくいく」ことを期待し、失敗を回避するようにサポートします。これが結果として探究を形骸化させます。

授業設計の段階で「この活動では必ず何かが行き詰まる」という局面を意図的に作ることが大切です。たとえば、「調べたい情報がインターネットには全くない分野」を選ばせるとか、「専門家に質問してみて、断られたり期待外れの答えが来たりする経験」を組み込むとか、そういった工夫が有効です。行き詰まりをどう乗り越えるか——その過程を振り返ることが、深い学びにつながります。

評価の対象を「成果物」から「プロセス」へ

「やらされ探究」を生む大きな原因のひとつが、評価の歪みです。スライドや発表の完成度ではなく、「問いがどれだけ深まったか」「試行錯誤をどれだけ繰り返したか」「自分の考えがどう変わったか」を評価の対象にすることで、生徒の行動は大きく変わります。

具体的には、探究ポートフォリオの活用が有効です。生徒が探究の各段階で「今どんな問いを持っているか」「どんな行き詰まりがあったか」「今日何を発見したか」を記録していきます。この記録は成績評価だけでなく、生徒自身が自分の思考の変遷を振り返るための鏡にもなります。

探究の評価基準として「問いの変化の記録」を重視するという方法もあります。たとえば、学期当初に持っていた問いが、学期末にどのように変容したかを自己評価させるのです。

その結果、「最初と全然違う問いになっていた。それが一番面白かった」という感想が出てきたらしめたものです。探究の「答え」ではなく、「問いの深まり」そのものが学びの手応えとして生徒に届いている——そんな状況が生まれてきたのです。

教師が「答えを知らない人」になる

探究の授業において、教師が最も強力な「主体性の阻害要因」になることがあります。それは、教師が「正解を知っている人」として振る舞うときです。生徒は無意識のうちに、教師の期待に沿う答えを探し始めます。

意識的に「教師が答えを知らない問い」を探究のテーマに選ぶことが、この問題を解消する有効な手立てです。地域の未解決課題、未来の社会についての問い、複数の専門家がそれぞれ異なる意見を持っているような問題——これらは、教師も生徒と一緒に考えるしかない問いです。

例えば、地域の廃校になった小学校の利活用についての探究プロジェクトを行ったとします。担当教師は「私もどうすればいいか答えはないんです。一緒に考えましょう」という姿勢で臨みます。生徒たちは地域住民にインタビューを行い、行政資料を調べ、近隣の事例を調べ上げた上で、自分たちの提案を自治体に向けて発表します。このようなプロジェクトであれば「探究が楽しかった」という生徒の割合は高くなるでしょう。

「本物の読者」や「本物の聴衆」を設定する

探究の発表の受け手が「クラスメートと先生だけ」である場合、生徒は「ちゃんとやったことを見せる」という意識で動きます。しかし、発表の相手が「地域の人々」「自治体の担当者」「専門家」「保護者」など、本物の利害関係者になると、生徒の動き方が根本的に変わります。

「本当に伝えたい相手がいる」という状況は、探究に現実の重みを与えます。生徒は「どうすればこの人たちに伝わるか」「この問いにはちゃんとした根拠が必要だ」と自然に考え始めます。これは外からの圧力ではなく、コミュニケーションへの内発的な動機づけから来るものです。

「探究の種火」を大切にする雰囲気をつくる

最終的に「やらされ探究」を超えるためには、学校全体の文化として「疑問を持つことが歓迎される」「答えのない問いを面白がる」という雰囲気が必要です。これは一朝一夕には作れませんが、教師の日常的な言葉や態度が積み重なることで少しずつ育まれます。

「それ、面白い疑問だね」「答えが出なくても、その疑問を持ち続けることが大事だよ」「先生もそれ、わからないな。一緒に考えようか」——こういった教師の言葉が、生徒の探究への姿勢を変えていくことでしょう。

教師自身の「やらされ感」にも目を向ける

「やらされ探究」を語るとき、忘れてはならない視点があります。それは、教師自身も「やらされている」ということです。

上からの指示でカリキュラムを組み、研修を受け、評価基準を作り、報告書を書く——この構造の中で、探究教育に内発的な喜びを見出せていない教師も少なくありません。教師が「探究って面白い」と心から思えていなければ、その気持ちは生徒には伝わりません。

管理職や教育委員会レベルでの取り組みとして、「教師自身が探究を体験する研修」の充実が求められています。教師が自分で問いを立て、調べ、行き詰まり、発見する体験をすることで、初めて生徒の探究を本物のものにするための教師のあり方が見えてくるからです。

-「やらされ探究」は、決して悪意から生まれたものではありません。善意の制度改革と、現場の現実との間のギャップが生み出した、ある意味で必然の歪みです。しかしだからこそ、この問題に向き合うことは大切です。

探究教育の理念である「自分で問いを持ち、考え、行動できる人間を育てる」は、今の時代において本当に必要なものです。それを形骸化させないために、教師一人ひとりが「この探究は、誰のためのものか」を問い直すことから始めてみてください。